「えっ! 拓本のたのしみ!?」考えたこともないタイトルだけに興味津々。
これは東京都台東区にある書道博物館の企画展のタイトル。
2月23日、乾燥した晴天の中、東京連合会、埼玉連合会のメンバー総勢20名が書道博物館に集いました。
館内1階、まず目に飛び込んできたのは大きな石碑その物の姿の拓本。
欧陽詢の作品「九成宮醴泉銘」です。
黒と白のコントラストが素晴らしい。
文字だけでなく石碑の傷までクッキリと白く浮かび上がっています。
圧巻でした。
その左脇下には「九成宮醴泉銘」の冊子状の拓本が展示されており、これは私達が手習いの時、お手本としていたサイズ。
次に目についたのは、先程の作品の右手に展示してある虞世南の作品「孔子廟堂碑」の、石碑そのままの大きな拓本。
こちらも冊子状の拓本と共に展示されていました。
石碑その物の大きさ、状態がわかる拓本を観ることにより、今まで手習いをしてきた文字の線が変わるかもしれない、と思いました。
戦いの絶えない中国であった為、石碑が紛失しても拓本が残っていれば、拓本から当時の歴史、文化、社会情勢に思いを馳せることができます。
そして、その思いを胸に臨書をすれば、心の込められた線が表現できるような気がしました。
2階に上ると王羲之の作品の拓本が展示されていました。
周知の通り王羲之の真跡は全て太宗皇帝と共にお墓(昭陵)の中で眠っている為、私達が目にすることができるのは、臨書本か双鉤塡墨された模書のどちらかです。
高校の教科書では殆どが馮承素の模書「神龍半印本」を掲載しています。
「二百蘭亭」と称されるほど異本が多いのは、長年の間、お手本として学ばれてきたからでしょう。
因みに呉石先生がお手本とされたのは褚遂良の「褚模蘭亭序」です。
では何故、副題が「王羲之と欧陽詢」なのか...。
そこで、展示されているのが王羲之の「蘭亭序」を欧陽詢が臨書したものの拓本であることに注目しました。
唐の太宗皇帝は王羲之の書が大好きです。
また太宗皇帝は優秀な官僚である欧陽詢の書を高く評価していました。
その欧陽詢が、至上の芸術と太宗皇帝が絶賛していた中でも最高傑作と賛嘆していた「蘭亭序」を臨書したものの拓本。
ここで太宗皇帝を介して王羲之と欧陽詢が結びつきます。
歩を進めていくと、手習い用サイズの拓本が並んでいました。
似てはいますが雰囲気が異なる二冊。
目を凝らすと両方とも欧陽詢の臨本「定武蘭亭序」。
何故か。
一冊の拓本は墨が濃く拓が採られ、もう一冊は淡い墨色で拓が採られていました。
墨色の濃い方からは字に力強さが感じられ、淡い方からは字に優しさが感じられました。
「昔は松煙墨を使用し、版木は梨の木を使っていました」と学芸員の中村信宏先生から説明がありました。
奥へ進むと、巻物になっている拓本や、拓本を大切に保管する為に作られた箱等も展示されていました。
更に石碑が消失し拓本のみが残っているものに遭遇。
これは隨時代の丁道護の作品「啓法寺碑」。
拓は宋時代に採られ、原石は早くに無くなっています。
「北朝の険しい書風が見事に融合し、初唐の楷書への架け橋となった」と中村先生が教えて下さいました。
李宗瀚の所蔵作品「臨川李氏四宝」と呼ばれる弧本(その一冊のみ伝わった本)の一つだそうです。
今回の展示を拝観し、また中村先生の解説により多くのことを学ぶことができました。
まず一つの拓本を仕上げるには、文章を作る人、文字を書く人、文字を彫る人、拓を採る人と四人の工程を経ます。
各々の技量により拓本の仕上がりが異なること。
次に拓の装丁の違い、石碑全体が見られる拓、冊子状にした拓、巻物にした拓や、拓を採る墨色で文字や拓全体の印象が変わるということ。
そして大切に保管されて今に受け継がれているということ。
書道博物館の見学を終え、拓本の素晴らしさの余韻に浸り帰る道すがら、ふと疑問に思いました。
何故、太宗皇帝は模書の「神龍半印本」ではなく、臨書の「定武蘭亭序」が一番王羲之の作品に似ていると評価したのか。
欧陽詢の息遣いが、最も王羲之の息遣いに似ていたからでしょうか...。
最後に解説して下さった中村先生に深く御礼申し上げます。
太田華雲記
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